深淵 ―梶井基次郎「檸檬」に捧ぐ―

原口惇(慶應義塾大学文学部国文学専攻2年)

 私は長年、私ほどに非人間的な人間はどこにもいないのではないかと思ってきた。私が今まで出逢ってきた全ての友人は、仲間と楽しく遊び、バイトをし、趣味をもち、生を謳歌しているのに、私はいつもつまらなそうな顔しかできない。他の人が楽しんでいるものを自分も同じように楽しむことがどうしてもできなかった。他の人が楽しんでいるすべてのものが表面的にしか感じられなかった。自分は他の人とは違うんだと思うと苦しかった。群れをなして楽しそうな笑い声を上げている人々を嫌悪しながら、一方では、うらめしそうに眺めていた。そういううらめしさは時に私を自分の意志とは正反対の方向へぐっと引き寄せてしまうこともあった。或る時は心にもない笑顔をふりまいてみたり、或る時は心にもないおどけた冗談を口にしてみたり、或る時は楽しんでいるふりをして、周囲の人々の顔色をそっと伺っていた。そうして顔や言葉をとりつくろえばとりつくろうほど、まるで自分が自分でなくなっていくような恐怖に襲われるのであった。他者に笑顔の仮面を見せれば見せるほど、自分が虚構化されていくのがひしひしと分かるのだ。それはそうだろう。自分自身への誠実さを放棄し、自分自身に嘘をついているのだから。
 それにしても、どうして人々はあんなにも楽しそうにしていられるのであろう。どうしてあんなに無邪気でいられるのであろう。そして、どうして私は他の人と同じ様に楽しむことができないのであろう。どうして気難しい顔しかできないのであろう。そんな際限のない問い掛けが始終私の心を捕らえていた。
 私は自分と同じような人間がどこかにいないものかといつも思っていた。孤独の苦しみを共有してくれる人がどこかにいないかと。時に孤独そうな人に巡りあっても、やはり私とは違う人間なのであった。孤独という言葉を弄んでいるにすぎなかった。センチメンタリズム。私は、この孤独について考えただけで途端にみじめな気持ちになり、どうしようもないやるせなさに打ちひしがれるというのに。依然として私は特殊であり、孤独であり、私と同じように非人間的な人間などどこにもいそうになかった。
 ここ数年間の私の精神活動は、他者と接触したときに生じる違和感の正体を突きとめようとすることが全てであったように思う。しかし、いつまで経っても「突きとめようとする」ことしかできない。「突きとめる」ことなど恐らくできまい。試みはいつまでも試みのまま。気難しい顔しかできない自分、つまらなそうな顔しかできない自分、その居心地の悪さを解消しようとすればするほど、逆に沈黙に引き擦り込まれ、ますます表情が強ばっていく。沈黙の不安が私をひどく閉鎖的にしていた。そして私はその閉じられた空間のなかでただ一人思索に耽るのであった。行き着く先さえ分からず、暗闇を盲目的にさまよう私を導いてくれるのは、想像のなかの他者だけであった。過去の記憶をまさぐっていると、想像の他者がふと私に何かを囁いてくる。私は、ただそのかすかな声へじっと耳を澄まそうとする。そして、その声を手掛かりに、この空虚な気持ちの正体を突きとめようとするのだが、依然として私は空虚な気持ちのままなのであった。
 他の人が楽しんでいるものを楽しめない私を唯一慰めてくれるのは、こうして思索に耽り、紙に筆をなすりつけている時だけなのであった。それは、他者と接触したときに生じる違和からの解放と脱力ではあるが、同時に、喉にまで出かかった言葉を正しく整理し、独特の言いまわしによって表現しようと意匠を凝らす、緊張を要する作業でもある。
 言葉の秩序のなかに放り込まれた瞬間から、つまり生まれた瞬間から、人は対象とのあるがままの関係を築けなくなってしまう。対象との関係は、常に言葉によって屈折したものとなる。ひとたび言葉の秩序のなかに放り込まれてしまったら、そこから脱出することは恐らくできまい。あるいは、唯一脱出を可能にするものは、死であるかもしれない。ひとたび原初的な存在から言葉を話す存在へと去勢されてしまった途端に、もう言葉というフィルターを通さずにはいかなる対象とも関係を築けず、また、対象との関係が言葉によって屈折化される限り、言葉を覚える以前にはいかなる媒介によっても隔てられることのなかった対象との原初的な関係は、永遠に回復不可能となる。
 他者と接触したときに生じる違和感や沈黙の不安、空虚な気持ちの正体を突きとめようと、私はいったい何十万語を費やしてきたことであろう。私はその正体を克明に描写しようと努めるのだが、掌の隙間からこぼれ落ちてしまう水のように、その正体の輪郭は私の掌を巧みに逃れていくのであった。まるで同じ所をぐるぐる循環しつづけているような気持ちになる。起点も終点ももたない円環上の周回はいわば永遠の運動なのである。この運動は私の内側から発する衝動だけを原動力とし、外部から強いられてすることではない。そして、立ち止まっては歩み、歩んではまた立ち止まってしまう私を励ましてくれるのは、想像のなかの他者だけである。決して誰にも見られることのない、どこまでも個人的な営みである。
 「花は人に見られなくとも咲きつづける」という言葉をどこかで読んだ覚えがあるが、この言葉の奥深さに気がついたのは暫く経ってからのことだった。私たちは人に見られることを欲しているのではないか。私たちは自分で自分を肯定するには余りにも無力で、それゆえ他者による承認を求めるのである。自分は間違っていないという承認を。私たちは他者が自分を肯定してくれなければ不安で仕方ない、臆病な存在なのである。
 芸術作品もただ人に見せるためだけのものに成り下がったように思われる。あるいは、芸術が商業主義と結託するとき、芸術作品は収益を上げるための単なる商品となる。たとえば、美術館はその典型ではあるまいか。優れた芸術作品と社会的に評価される作品が陳列され、人々はそれを満足げな顔をして眺める。しかし、果たしてそのうちの何人が本当に満足していることであろう。美術館に陳列された「優れた」芸術作品を眺めることは、ショウウィンドウの向こう側に陳列された商品を物欲しそうに眺めるようなものなのだ。
 ショウウィンドウの向こう側に陳列された商品化された作品を人々が眺める様相は、価値の共同幻想性を物語る。自分が本当に優れていると思うものではなく、他者が優れていると言うものが価値の正体なのである。しかも、その他者の集団性と匿名性が増せば増すほど価値も増すと認識される。自分では内心どこが優れているのだろうと思っても、周囲の人々が優れていると絶賛すれば、疑問を封殺し、気づかぬうちに優れていると思い込んでしまうことがあるのではないか。私たちは他者の言葉を自分の言葉であるかのように喋り、他者の価値観を自分の価値観であるかのように内面化し、そして、他者の欲望を自分の欲望であるかのように求めてしまうのである。
 人に見られることを求めない作品、他者による評価を求めない作品だけが本当の芸術作品と言いうるのだが、果たしてそういう恐るべき作品はどれほど存在するだろうか。自分自身への誠実さがそういう作品を作り出すのかもしれない。
 商品として売るためだけの作品には自分自身への誠実さなどありえない。商品として売るためには他者の承認が必要だからである。ある作品が資本との交換に値すると人が価値判断してくれなければ商品としての価値をもちえない以上、商品を作り出すものは、当然、他者に気に入られるように作品に修正を加えていくことになる。他者に気に入られるように媚びへつらい、自己を加工していくことは、自分自身への誠実さであるはずがない。芸術作品の商品化とは、たとえ自分の理想に背くことになっても、資本と交換するに値する作品を意図的に作り出していくことである。それは自己そのものへの冒涜でしかない。他の人が楽しそうにしているものを私がつまらなそうな顔しかできないのは、恐らく、自分自身への誠実さを回復しようとする試みなのであろう。
 他者に要求されるままに自己の意志を放棄してしまう脆弱さは、たとえば平和憲法の精神を骨抜きにしてまでもアメリカに命じられるままに自衛隊をイラクに派兵してしまう小泉政権や、アメリカに命じられるままに平和憲法を改悪し、アメリカとの集団的自衛権を行使しようとする安倍政権に典型的である。
 資本の多寡によって芸術作品が優劣に序列化されてしまうファシズム体制において、芸術を享受する私たちの姿勢はどのようにあるべきか。値段の高さや有名であることが作品のよさを保証するとは限らないと深く肝に銘じなければならない。私たちはどうして有名であることに価値を見出したがるのか。自分が有名になりたいがために小説を書くものもいるのではないか。有名になりたいと欲することは、他者に自分を誇示しようとする虚栄心の表れに他ならず、また、他者に肯定されなければ安心できない脆弱な精神の表れでもある。 人は他者という鏡によって自己を確認する。他者の価値基準によらなければ何も決定できない臆病者ほど人の顔色を伺い、自分は人にどのように思われているか、他者に非難されはしないかと絶えず不安になるのである。わずかの肯定に自惚れ、わずかの否定に全否定されたかのように感じて憤怒する。私たちは、他者の声、目、表情に一喜一憂しているだけなのだ。
 また、他者という鏡に自分をよりよく、より美しく映そうとすることはナルシシズムの快楽である。そこではいかなる他者も自分を一方的に映す鏡でしかなく、しかも自分だけが鏡に映る主体である。双方向的に互いを映し合うことによって初めて生まれる対話などそこには生まれようもない。他者に見られたくて仕方がない虚栄心がここにも根を張っている。
 人に見られることを求めない作品、他者による評価を求めない作品だけが本当の芸術作品といいうるのと同様、人に見られることを求めない人間、他者による評価を求めない人間だけが自分自身への誠実さを守れるのではないか。
 しかし、思うに、問題はさらに根深い。なぜなら、この他者による評価を求める人間こそ、近代資本主義が求めてやまない存在だからである。今日の競争社会をますます加速させるに絶好の存在でもある。

 ネオリベラリズムが生産し、依拠するのは自己検閲的な主体である。ネオリベラリズムにおいては、他者(=市場、消費者)による自己の評価があらゆる評価に優先される。つまり自分の行動や労働や作品が、市場においてどう評価されるかが自己の行動、労働、作品において最優先事項となる。
(渋谷望『魂の労働』)

 つまり、新自由主義(ネオリベラリズム)とは、その名称とは裏腹に、人々が資本の論理によって一切の自由を剥奪されていく過程であり、さらには、人々が資本の論理を進んで内面化していく過程でもある。ここで注意しなければならないのは、資本の論理は、人々の外面的な振る舞いを規律していくだけでなく、その内面をも規律し、支配しようとしていることである。まさしくそれゆえに新自由主義は哲学を許さない。自分はどうして生きているのか、自分の幸福とは何であるか、自分は何がしたいのか、そういう思想は人々をして自己を省み、疑わせる。ひとたび或る疑念が生じれば、疑念が新たな疑念を呼び、哲学が深まっていき、ついには人々をして、どうして自分は企業のためにこれほど尽力するのだろうという疑念を抱かせるに違いない。資本主義はその疑念を最も恐れるがゆえに哲学を葬ろうとする。企業にとって使用価値のある商品化された身体でありつづけて欲しいがために、自分は企業に必要とされている存在で、その企業のために心身ともに差し出すことが自分の幸福なのだと人々が思い込んでくれればよいのだろう。
 そこにあって資本の論理が求めるものは、他者の論理をあたかも自己の論理であるかのように内面化する、従順な身体である。この身体こそ「自己検閲的な主体」に他ならない。つまり、進んで哲学を放棄し、自己の行動や考え方を他者に求められるままに一体化し、自己を外部に照らして適応させていくということだ。さらに恐るべきことに、人々は、自己の身体と精神を骨抜きにされ、その空洞に資本の論理を注入され、コントロールされている、まさにその事実にさえ無自覚であることである。この無自覚は哲学によって自覚されるはずなのだが、哲学への機会はことごとく根絶されている。
 自己の身体と精神が資本の論理によって骨抜きにされればされるほど、人は自分の存在意義を喪失し、空虚な気持ちに捕らわれてくる。今の楽しみを我慢してまで将来に生かされている自分へのぼんやりとした不安を抱く。私たちは将来に生かされているのだ。今自分が注いでいる努力は常に将来のための伏線でしかなく、したがって現在の充足は得られようもない。今努力すればするほど現実感は失われ、内的な空虚が増殖していくばかりである。この空虚さがニヒリズムの根源であろう。ここに至って哲学が始まるはずだが、それとは全く反対に、人々はこの空しさを補完するためにさらなる努力へと自己を駆り立て、ますます資本の論理と一体化してしまう。人は努力によって空虚を満たそうとし、しかしその行為が結果として新たな空虚を生み出してしまうという、いわば空虚の生産・再生産の悪循環に陥ってしまうのだ。
 資本の論理を内面化すればするほど、自己はますます交換可能な存在へと変質していく。交換可能とは、資本と交換可能、また、他の誰かと交換可能ということだ。企業のために尽力する代わりに資本を報酬として受け取るとは、自己の身体を資本と交換可能な商品として売っているということだ。また、常に他者の行動基準に照らして自己の身体と精神を修正していけば、おのずと独自性は喪失され、自己と他者との差異も消失してしまう。自己と異質であるがゆえに対話・衝突・共鳴が生まれ得るその他者との違いを自ら埋めてしまえば、自分が何者であるか分からなくなり、その結果どこにでもいそうな自分を生きることしかできず、生きることの空しさに苛まれるのも当然であろう。他と同じであれという「自己検閲」の抑圧が、資本主義をはじめ私たちの生活意識の隅々にまで張り巡らされている。
 自分の意志で生まれてきた人間など一人もいない。「生まれる」こと自体がすでに受動態なのである。しかも、地縁、血縁、門地、性別、身分、性格、身体の形状、容姿など、自分を構成する要素のほとんど全ては自分では選択できないのである。自分とは、実は自分の意志をはるかに超越した存在であり、人はそういう先天的な自分を拒絶できず、ただ無抵抗に受け容れるしかない宿命を抱え込んでいる。どうして自分は自分に生まれてしまったのだと人は嘆くのだ。私たちは先天的に不平等に生まれてくる。

 近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。人間はその社会的役割と一致していた。かれは百姓であり、職人であり、騎士であって、偶然そのような職業をもつことになった個人とは考えられなかった。社会的秩序は自然的秩序と考えられ、社会的秩序のなかではっきりした役割を果たせば、安定感と帰属感とがあたえられた。そこには競争はほとんどみられなかった。ひとは生まれながら一定の経済的地位におかれ、それによって、伝統的に定められた生活程度は保証されたが、同時に、より高い上層階級の人間にたいする経済的義務は果たさなければならなかった。しかしこのような社会的地位の限界を破らないかぎり、自由に独創的な仕事をすることも、感情的に自由な生活をすることも許されていた。いろいろな生活様式をあれこれと自由に選ぶという、近代的な意味での個人主義(しかしこの選択の自由は非常に抽象的なものであるが)は存在しなかったが、実際生活における具体的な個人主義は大いに存在していた。
(フロム『自由からの逃走』)

 その意味で、近代とは、人がそれぞれ生まれもっている不平等の是正と宿命の克服とを可能にし、誰もが自分で納得できる人生を歩めるようになったはずであった。それが人間の進歩ではなかったか。たとえば、前近代においては、職業でさえ自分の意志では選べなかった。武士の子は武士、農民の子は農民という世襲制によって、子は親の職業はもちろん、身分さえ受け継がなければならず、そこに個人の意志が入り込む余地はなく、個人は共同体内部のある階層に固定されていた。
 そういう前近代を克服した近代人に課せられたのは、固定化された階層からの脱出であり、個の確立である。努力さえすれば誰でも安定した職に就き、高い俸給を保証され、また、自分の人生を自分の意志によって自由にコントロールできるという考え方である。これを推し進めていくと、自分が注いだ労力と時間に見合う利益を得ようとする合理主義へ辿り着く。今この時間を無駄にしてはならない、将来の繁栄のために今努力すべきである、という考え方において、現在注いでいる努力はやがて将来利益となって還元されると信じて、人は今やりたいことを我慢してまでも今の時間を将来のために有効に割くことを暗黙の内に強いられる。しかし、真面目な人間ほど努力を強いられているとは感じないばかりか、あたかも自発的に努力しているかのように錯覚してしまうとは皮肉なことではあるまいか。実際は明確な目標があるわけでもないのに、あたかも自分が望んで努力しているかのように思い込んでしまうのだ。実は、人を努力へと仕向けているのはまさしく資本主義なのである。
 しかし、今日の現象は、恐るべきことに、人々を盲目的な努力へと駆り立てていた資本主義や合理主義体制に亀裂が生じていることである。それは、現在注いでいる努力はやがて将来利益となって還元されるという信仰の崩壊でもある。あるいは、近代が克服したはずの世襲制の復古ともいえよう。バブル崩壊後の長期に渡る不況とも相まって、若者の雇用口が狭まっていき、働き口を見つけられない人々は安い給料による非正規雇用を余儀なくされ、その一方で、社会保障がますます削減され、その低所得の家庭に生まれた子は満足な教育さえ受けられず、その結果、子も低所得の非正規雇用を余儀なくされていく。所得格差が教育格差を生み、さらに子の所得格差を生むという無限の悪循環を代々に渡って引き起こすのである。そして、低所得の階層が固定化されるかと思いきや、父の代、祖父の代から築き上げられた土壌を最大限に利用してこの国の政治をほしいままにする世襲議員、その先に待っているのは、政治家の子は政治家、フリーターの子はフリーターという宿命論の回帰に他ならない。
 このような今日的な現象は、人々から将来に対する盲目的な幻想を奪い、努力しても無駄だという意識を蔓延させ、ひいては生きる気力すら奪われてしまい、人々をニヒリズムに陥らせている。努力が報われなければ生きる希望などないのだろう。
 それにしても、人はどうして生きる意味を求めるのだろう。そもそも生きる意味など本当にあるのだろうか。もし生きる意味など始めから存在しないとしたら、単なる幻想にすぎないとしたら、どういうことになるか。生きる意味があるはずだという信仰は、生きる意味など見出しえない人間の排除を前提にしてしまっている。つまり、生きる意味の信仰は生きる意味を見出しうるものの独善的な論理なのである。
 言葉を獲得し、原初的存在から言葉を話す存在へと去勢されてしまったがために、対象と屈折した関係しか築けなくなってしまったように、人は生きる意味の欠如に苛まれ、この欠如が催す空虚を補完するために、目標を設定し、その実現を求める。しかし、目標はそれ自体逆説的な存在である。なぜなら、目標を実現してしまったら、人は再び生きる意味を喪失してしまうからである。目標の実現は目標の喪失である。実現されない目標が生きる意味を錯覚させるのではないか。目標を実現した途端、人は再び生きる意味の欠如に苛まれ、また新たな目標を設定しなければならない。つまり、人は目標の実現をめざして生きるが、実は、目標は実現されてはならないのである。これが目標のパラドックスに他ならない。

社会は人間の基本的衝動を洗練されたものにし、たくみに抑制しなければならない。社会によってこの自然的衝動が抑圧されると、その結果驚くべきことが生ずる。抑圧された衝動は、文化的に価値のある努力にかわり、こうして文化の人間的基盤となる。フロイトは、抑圧から文化的行動へというこの不思議な変化を昇華とよんだ。もし抑圧の度合が、昇華の限界以上に達すると、個人は神経症(ノイローゼ)になり、抑圧を減らすことが必要となる。しかし一般的には、衝動の満足と文化とは逆比例する。抑圧がつよいほど、より多くの文化が生まれる。
(フロム『自由からの逃走』)

 人間は誰しもその内部に大きな穴を抱え込んでいる。この穴は、言葉を獲得する代わりにそれ以前の原初性を喪失してしまうことによって生まれ、これが生きる意味の欠如を催す根源である。この「穴」は、「空虚」とも「空洞」とも「欠如」とも「満たされなさ」とも表現される。フロイトは、この穴(を性的衝動の不満足と考えた)を芸術やスポーツや努力などの文化的行為によって代替的に満たそうとする衝動を「昇華」と呼んだ。満たされない衝動が輝かしい文化を生み出すとは皮肉ではあるまいか。この皮肉が言葉によって去勢されてしまった人間の宿命なのか。
 本文を執筆していた歳の暮れ方、病床に伏した。単なる風邪にすぎなかったが、私は病に伏するたびに死について思う。自分はいつどのように死ぬのだろうか。あるいは、いつどのように死のうかと。
 先に、政治家の子は政治家、フリーターの子はフリーターという宿命論の回帰について述べた。もし最低限の物質的豊かさが文化的豊かさの基盤であるとするならば、今後どのような現実が考えられうるであろうか。
 小泉政権において、一流企業への規制緩和による優遇政策が実施される一方で、安い給料による非正規雇用でしか働けなくなったフリーターの増加、老人医療費の負担増、「自立支援」という名の障害者の放置が推し進められた。さらに、現在の安倍政権によって、二〇〇七年から母子世帯への援助金支給が廃止される。そればかりか、消費税のさらなる増税さえ不可避とされる。近代は、国民が国家権力から介入されない国家からの自由と、国民が自力で生きるのに必要な物資が不足したならば、それを国家が保障する国家による自由とを築き上げたはずであった。その歴史的過程を骨抜きにし、「自由」の名の下に無力な国民を切り捨てる新自由主義が作り出そうとする社会とは、なんとも逆説的な飢餓先進国ではあるまいか。飢え、渇き、寒さ、恐怖、痛み、病。そんな耐え難い苦しみに誰も気がついてくれない地獄のような苦しみを私は努めて想像してみようとする。まことに信じ難い歴史的退行と言わねばならない。
 こうした時代錯誤的な今日の現象には、生権力の策略が潜んでいると思われる。なぜなら、老人、母子世帯、路上生活者、障害者は、国家にとって使用価値をもたない存在だからである。使用価値をもたないものは存在に値しないということだ。「人を恫喝し殺す権力、ではなく、思い通りに人を生かそうとする」(杉田俊介「無能ノート」)生権力は、国家にとって役立つ存在として、また、資本主義にとって使用価値のある存在として、私たちを生かすのだ。それは同時に、国家と資本主義にとって使用価値をもたないものを徹底的に排除することと表裏一体なのである。この排除を推し進める装置が新自由主義なのである。
 では、生権力はいかにして私たちを「生かす」のか。身体的側面と精神的側面とに分けて考えてみたい。まず、身体的側面について考える。
 近年、全国的な規模で禁煙政策や飲酒運転の取り締まり、罰則強化が叫ばれ、禁煙や禁酒が奨励される。そして、この禁煙ファシズムと禁酒ファシズムこそまさしく生権力の策略に他ならない。使用価値のある身体とは健康な身体に他ならないからである。健康管理に気をつけなさい、タバコを吸うのをやめなさい、お酒はなるべく控えなさい、病気にならないように注意しなさい、長生きしなさい、という数限りもない命令は、あたかも個人の身体を気遣っての言葉のように聞こえるけれど、実は、病という異常性を排除することによって健康という正常性を作り出し、生権力にとって使用価値のある身体を自発的に維持させようとする策略なのではないか。いつでも徴兵可能な身体を保持しておく策略でもあろう。
 このような生権力は、他者に求められる自分へと自己の身体を進んで加工していく「自己検閲的な主体」を作り出そうとするがゆえに、働く意欲をもたないニート、すなわち資本主義にとって使用価値のある身体へと進んで自己改変しようとしないニートを非難する。さらには、生権力によって生かされつづけることに従わない者、すなわち自ら命を絶つ者は、生権力にとって最大のテロリズムなのである。だからこそ、死の苦しみよりも生の苦しみの方が耐えられない人々をさえ生権力は徹底的に非難する。相次ぐ青少年のいじめ自殺を受けて石原慎太郎が「尊い命を自分で捨てる方が悪い」と非難するのはいかにも象徴的なことである。この「尊い命」こそ生権力のイデオロギーに他ならない。
生権力は、どんなに苦しかろうと決して死んではならない、ただ生きてさえいればよいと命令する。そして私たちは苦しみに喘ぐ他者に対して「がんばって」と声を掛ける。しかし、「がんばって」という言葉には、他者の苦しみを傍観する自己の無関心さが感じられる。
 また、昨今のヒステリックなまでの管理社会・監視社会も生権力の一環として考えられよう。全ての人間は潜在的な犯罪者予備軍とされ、誰がいつ起こすか分からない犯罪を「予防」するためには、どれほど個人のプライバシーが侵害されようと、全ての人間の行動を隈なく監視し、保存しても許されるという論理である。これは一九九九年の小渕政権における、警察権力による通信機器の盗聴を認めた盗聴法、国民全員に十一桁の番号を付し、住所・氏名・生年月日などのあらゆる個人情報をコンピュータによって一元管理する改正住民基本台帳法に顕著である。国家にとって、国民の存在価値は携帯電話とおんなじなんだ。
 さて、次に、生権力が人々を「生かす」精神的側面について考えたい。
 二〇〇六年十二月、臨時国会において教育基本法「改正」案が可決された。とはいえこの法案は、愛国心の明記や法律による教育の管理など、「改正」からは程遠い復古的な法案である。この復古的、国家主義的な法案がいともたやすく成立してしまったのは、宗教団体「創価学会」を支持母体とする公明党と、右翼ファシズム的自民党とが結託した自公連立政権が大きな原因であるのだが、その経緯はここでは割愛する。
 生権力はまさしく教育を通じて国民の精神を統一しようとする。教育基本法改悪はその顕著な例であるが、それ以前から、東京都教育委員会による都立高校の卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱命令、およびそれに従わない教員の処罰から始まっていた。そして、こうした憲法違反と言わざるを得ない個人の尊厳の蹂躙は、先の一九九九年の小渕政権における国旗・国歌法にまでその原因を遡ることができる。
 教育基本法改悪案が成立してしまった今、事態はさらに深刻である。国旗掲揚・国歌斉唱の徹底は、これから東京都のみならず全国へ拡大するであろうし、しかも、卒業式に限らず、教室における日の丸の掲揚、毎朝の君が代斉唱が強制されるのは時間の問題であるかもしれない。私たちはまた天皇陛下に忠誠を誓うのか。
 私は、将来、国語科教員をめざす者として、現在わが国を取り巻いている不穏な空気に暗澹たる思いを抱かずにはいられない。この時勢にあって自ら進んで教員になろうとは愚かであるかもしれないことなど分かりきっている。しかし、私はこの時勢だからこそ、教員を選びたいのである。臆病な私には教員としての権威などないかもしれない。君が代を強いられるかもしれない。想像を絶する迷いや苦しみも際限もなくあろう。しかし、それでも私はこの道を選びたい。私は教育界のテロリストでありたい。「自己検閲的な主体」になって自分自身への誠実さを失ってしまわないように。そして、二十一世紀を担う生徒たちが曇りなき眼でこの日本と世界とを正しく見つめられるように。
 誰もがそれぞれの幸福のあり方を見つけ出し、外部から強いられることなく、自己の内側から溢れ出てくる生への意志を自然な形で発揮することはできないのだろうか。人間に生まれてしまったことで引き受けなければならない孤独、自分の意志ではどうすることもできない宿命、人間は、生き延びるには余りに障碍が多すぎる。そして、その障碍による挫折と絶望が、時に人をニヒリズムの深淵に突き落とし、死の欲動を抱かせることもある。生きていれば、いつか、ちょっとした幸福に巡りあえるかもしれないと明日に希望を託しつづけてきたのだけれど、どうやらやはり行き止まりだったらしい。生きている限り、ニヒリズムの深淵から逃れることはできないのであろう。それでも、ただ生きつづけるしかないのだろうか。生かされつづけるしかないのだろうか。ああ、願わくは、この心の中の空洞を満たしてくれる他者が欲しい。そして、その他者のために、数十万語を費やして「愛」を表現しえたなら、もう、生に未練はない。いつ訪れるか分からない死であるというのに、努力をすればするほど、生への未練が増すばかりである。
 そろそろ終わりが近づいてきた。安倍翼賛政権の最終的な目標は改憲であるが、教育基本法改悪案強行採決への悔恨と、日本国民の宝、日本国憲法改悪絶対阻止への希望を込めて書いた、今年の私の年賀状をもって、本文の結びとしたい。

 あけましておめでとうございます。二十歳になる年となりました▼昨年、アメリカの中間選挙は共和党が敗退し、ブッシュ政権はイラク政策の変更を余儀なくされました。アメリカのイラクへの軍事侵略の根拠であったはずの大量破壊兵器など始めからありはしなかったことにアメリカ国民自らが気がついた結果なのでしょう▼一方、わが国の小泉政権から安倍政権への移行の中で強化されるさらなる対米従属路線、それは小泉政権における自衛隊のイラク派兵と、安倍政権におけるアメリカとの集団的自衛権行使をめざす改憲とに顕著です。わが国の平和憲法は事実上骨抜きにされている。諺に「虎の威を借る狐」という。虎の後ろを歩く狐はあたかも自分が皆に恐れられているかのような錯覚に陥るだろう。他者の権威を楯にとって自己の卑小さを隠蔽する、そのみじめな姿は「アメリカの威を借る日本」、政権という容器は変わっても空虚な中身は全く変わっていないのでしょう▼人は振り返ることしかできない。時間的に隔てられた過去しか反省の対象たりえないとは皮肉な宿命ではあるまいか。気がついたときにはもう過ちを犯してしまっていた。反省だけが私たちに許された精神的成熟の唯一の方法であるならば、それに徹する他にいかなる方法があろうか▼過去へのまなざしを失えば歴史は繰り返すだろう。頭と心を空っぽにしていれば国家主義的イデオロギーを注入されてしまうだろう。多数派の潮流の絶対化は全体主義を招くだろう。「人間にとって、国家はその全体ではない。国家の論理についに従うことのない〈他者〉によって私たちは全体へつらなる。そして、その全体においてのみ〈自己〉は新たになる」(武満徹『暗い河の流れに』)。単なる人工的構築物にすぎない国家、制度にすぎない国家はあたかも人間の全体であるかのようにふるまうのだ。私は「国家の論理についに従うことのない〈他者〉」でありたい▼時とともに人の心は移ろい、そして、時代も移ろっていく。そういう無常は人を深い感傷へと陥れる。しかし、常なるものがないからこそ逆説的に永遠が求められるのではないか。永遠に不変的なものこそ普遍的であるのかもしれないのだ。昨今の安倍政権による改憲への策略、いわゆる記憶喪失の全体主義への策略を見るにつけ、いかなる時勢にあっても少数派の中にこそ普遍性は存在するという逆説的真理について考えを深めなければならない。私たちは今、暗い河の流れに身を任せてはなるまい▼憲法とは国家が国民に守らせる約束事ではなく、国民が国家に守らせる約束事に他ならない。だからこそ私たちはその九条の中に軍隊という国家権力を永遠に封印したのです。安倍政権の改憲の狙いは、この国民から国家への命令の逆転にある。アメリカとの集団的自衛権行使という国家の暴走が封じられている今こそ、憲法が真に機能している何よりの証ではないですか▼国家は学校とマスメディアを通じて国民に国家意識を注入しますが、例えば学校という国家機関を通じて子供たちに配られる「心のノート」が教育勅語の復古とならぬよう、万全の警戒を期したいものだ▼二〇〇七年もどうぞよろしく。

参考文献
──2006年12月30日完──

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