論考


演劇の失効〜「廃業イベント」をめぐって


清水唯史


 去る8月7日と8日の2日間、計12時間以上に及ぶ、シンポジウムと上演を中心とした演劇イベントがおこなわれた。イベントタイトルは「『いまさら演劇をやめられるか!』VS『廃業に向けた清算手続きを!』」。主催はクアトロ・ガトス、中西B、森下貴史。メインゲストは名古屋「廃業調査会」の海上宏美、大野左紀子、清田友則。他に、内野儀、北野圭介、堤健、浜島嘉幸、森山直人、脇川海里といった実践家や批評家が、パネリスト、ビデオ出演、論文寄稿などの形で参加し、演劇=芸術が政治の上位ではなくなったと言われる現代において、演劇=芸術はもはや有効性を失ったのか否か、といったことが多様に議論された。議論の内容は多岐に渡り、その全てをレポートすることは紙幅的にも能力的にも難しい。ここはあくまでも主催者の一人として、「廃業」という問題提起が何を意味するのか、私見を述べたいと思う。
 現代の資本主義=市場=消費社会においては、あらゆる行為が消費に回収される。かつて個人の存在を繋ぎ留めていた共同体を含めた伝統的価値システムの止めどない脱コード化と脱テリトリー化と崩壊は、自己同一性を激しく希求し彷徨し続ける、ジラール風に言えば「模倣的欲望」の主体を社会に向けて大量放出した(リストラした)。帰属先を奪われ、自明の自己同一性を喪失した私たちは、他者の眼差しによって自らの存在を確認したいというナルシスティックな欲望を肥大化させていく。しかし、そうした私たちの他者に承認してもらいたいという欲望は、他者との差異を欲望しつつ、他者の欲望するものを欲望する(必要なものを満たすだけに留まらない人間の文化・社会的欲望)が故に、他者との同一化も他方で激しく欲望していくことにもなる。差異を欲望して誰もが均質化していくわけだ。こうした運動は「自由と平等」の拡大幻想を私たちに与えてくれたわけだが、それは無論「主体的」に為されたものではなく、マスプロダクションから少数多品種プロダクションシステムへ移行した市場経済原理がプロモートしたものにすぎなかったことを、今や知らぬ者はいないだろう。無限の差異化の欲望は必ず市場経済原理に従属させられ、ミクロな個人の自律は、常に集団化し得るマイノリティとして再編されただけだった。資本主義は名目上放棄された植民地を不可視化し、それによって搾取を強化する一方で、「北」の内部に「南」をつくり出すことにも成功し、高度化し、一神教として具現したのである。
 シュミットとアレントを援用するならば、こうした状況は表象の政治(経済的、政治的、文化的不平等を強いられた者の社会的自己同一性が集合的自己同一性として支配的表象機構によって規定されること。代表=表象システムの中ではじめて表象するものとされるものが出来してくるのであって、その逆ではないということ。ルイ・ボナパルトの茶番を想起せよ)が開始される条件とまさに符合し、故に「政治的な死」にこの社会は覆われている。シュミットは政治を他から識別する指標として友-敵の区別を用いたが、この区別に表象の政治の特徴も内包されると考えて良い。同質的な我々がつくられるためには同質的な彼らがつくられなければならないという集団的自己同一性の機制が表象の政治には不可欠であり、集団内のミクロな差異はもはや意味を成さないのだ。友-敵の抗争は最終的に他者の存在そのものの否定、廃棄、絶滅へと向かうが、その前提条件こそが、人間がその行為と意見に基づいて他者から判断されるという関係が成立するシステムの破壊、つまり「政治的な死」である。差異を欲望しながら果てしなく均質化=「我々化」していく私たちは、「オブスキュリティに心を動かされることのない近代の感受性」を生きているのである。しかしながら、私たちはその感受性に恐怖を感じ、「一人きり」になることを極度に嫌ってもいる。他者からのアテンションを奪われ、「現れ」が閉ざされ、「何をおこない、何を言ったか」ではなく、「何か(what)」という集団的属性の交換可能性、少数多品種(マイノリティ)商品性のみで自己を規定されることにおののいてもいるのだ。
 演劇=芸術はこうした心理を巧みに突く。芸術実践=表象は表象の政治のミニチュア版であり、それをおこなっている限り、私たちは「自己実現」(表象の政治的換言の一典型例)を果たしているかのような幻想に浸ることが出来、「政治」的現実に全く向き合わずに済む。アンダークラス=「南」を搾取し、不可視化する自らが「南」へと廃棄されている現実に向き合わずに済んでしまうのだ。
 「廃業調査会」はこうした演劇=芸術の癒し消費財化と「政治的な死」を批判しているのであろう。このことに同意しない者がいるとは思えない。90年代前半に提起された「絶対演劇」は民主主義の根本原理であるトートロジーを戦略的に用いながら、演劇の形式化を徹底することでその政治化を試み、絶対演劇人・海上宏美は「廃業」によってまさに演劇の幕引き(カーテン引き)をおこなったが、これを意匠として「新しい演劇」がおこなわれつつあるなどと認識すべきではない。ここでは絶対演劇の挫折を踏まえ、再度演劇の政治化が試みられているのである。ただし、「廃業」が唯一の問題解決策というわけでもないだろう。私は演劇に留まっている。それは暴力的な表象の不毛性に陥ることなく、「現れ」に相応しい歓待の場、交換不可能において交換可能性を促す不正義感覚の場を持つ自由(正義感覚は民主主義の理念を下支えするが、それはマジョリティのものである)と、相互理解という名の「所有」を諦める自由が演劇には未だあるように思えるからである。


──『CUT IN Vol.33』(2004年11月)より転載──

 
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