論考


入間川正美CD『セロの即興もしくは非越境的独奏』ライナーノーツ


清水唯史


 「思いがけずあなたの前に現れる人には、天幕の下の席が用意されている」(エドモン・ジャベス)

 このCDは2001年6月17日、東京、高田馬場のプロトシアターにおいて行われたライブ=『入間川正美によるチェロの即興 もしくは非越境的独奏』をほぼそのまま録音したものであるという。
 「非越境的・・・」。資本の多国籍化、グローバル化は当面国家を解体させていくというより、むしろ国家群を再編成していく方向にある。一見相反するかのようなグローバリゼーションという越境とナショナリズムという反越境が、実のところ相互媒介と癒合のプロセスを経て、グローバリゼーションそのものを進行させている。そしてもう一つのグローバリゼーションは、アジア全域、アフリカ、欧米にも拡がり、それ故にこそ、陵辱を受け、世界の現行秩序のダーティーな陰の局面を一身に体現させられている。あるいは、身体というミクロな領域においては兵士的、工場労働者的、体育的身体=近代的身体の時代は終わり、アメリカの企業の多くが行っている体験訓練に見られるように、解雇を好機と受け止め、未知のものにポジティヴに挑む柔軟な越境的身体への改造が盛んに行われている。無論、9.11が悲劇的に、かつ端的に示してしまったように、越境を拒む身体もまたグローバル化されている。越境を拒む身体が一方で引用=演奏可能なテクスト=楽譜化された身体であったことを想起するならば、テクスト=楽譜もグローバル化されている、と言うべきであろうか。破片化した身体、そしてテクスト。そこから読み取られる遺伝子情報レベルの差異、非越境。では、こうした現在にあって、「非越境」と自らの演奏を呼ぶ入間川正美は一体「何処へ」行こうとしているのであろうか。
 このCDは『入間川正美によるチェロの即興 もしくは非越境的独奏』をほぼそのまま録音したものである、と先述したが、それはあくまでも「ほぼ」であって、厳密に言えば録音されたものには明らかな編集が施されている。実際の演奏時にはなかった、演奏と演奏の間の無音状態=沈黙=空白が編集によって加えられているのだ。無音とはノイズである。元来、ノイズが一つの音感共同体と別の一つの音感共同体の接触や衝突から生じた、一つの音感共同体によって外部の音と感知される、危機と衝突そのものの表現であったように、このCDに録音された無音も恐らくは演奏と演奏、音と音の接触、衝突から生み出された危機として聴取され得る。無論、このことはノイズが挿入されていなくても、実際の演奏におけるブレイク等によって確認可能であったろう。奏法と音の指向性の頻繁な変更は、差異の持ち込みであり、そこでまさに複数の音感共同体や聴者が出来していることを証している。だが、実際の演奏=ライブは一つの音感共同体を組織する。いや、不可避的に一つの音感共同体のように聴取されていた、と言うべきか。であるならば、と言うよりも、だからこそ、入間川正美はCD化を意図し、ツインとしての演奏の一方に「非越境帯」としてのノイズを明示的に組み込むことによって、複数の共同体=音感の衝突による危機を出来させ、もう一方の演奏に対しては脱遡行的に、一つの共同体=音感の中にもマングレルなものが瞬聴され得るのだ、ということを感得させ、そして、秘めた、と考えてみても良いのではないか。口述筆記官、もしくはカフカの秘書のような、書を秘める者としてである。マングレルなものは明かし得ない。しかしながら、共同体や身体やテクストの自明性を無化することも不可能。だから、其処と此処を分けるのではなく、其処が此処であり、此処が其処でもあるような演奏が試みられる必要がある。それは実際の演奏そのものを、演奏のみをテクスト化することによって可能となるような地平だ。故に極めて危険と思われる「即興」もあえて前提とされなければならなかった。予め書かれたテクスト=楽譜が存在しない即興だからこそ、無防備に発現しかねない身体性や歴史性をめぐる厖大な無意識のテクスト(もしくはテクストの無意識)をあえて放置しなければならなかったのだ。入間川正美は恐らくこのような課題を持続的に持ち続けてきたのであろう。入間川正美はこれ以前のいかなるライブにおいても必ず、観客が確実に見える場所にDATやHDレコーダーなどを置き、あたかもそうした録音機材に向けて演奏しているかのように、(録音スタッフに委ねることなしに、モニタリングなしに)自らの演奏を自ら録音し続けていた。録音スタッフに委ねず、自らも演奏中にモニタリングしていないわけだから、録音がミスなく行われているかどうかはわからない。いや、ここでは録音が全く行われていない可能性さえある。入間川正美の演奏はある意味、そうしたまさに可能性としての無音状態=沈黙=空白に向けて為されていたのだし、聴者もそうした可能性としての無音状態=沈黙=空白を常に覚知せざるを得ないように入間川正美の演奏を聴いていた。これはライブ演奏において「其処から此処へ」を召喚せず、「此処から其処へ」を召喚するための有効な戦略だったと思われる。即興において立ち現れる「其処から此処へ」には非実体的なものを実体化する暴力がある。だが、入間川正美が行った「此処から其処へ」には非実体的なものが関わらない。そしてここまでくれば既に明らかであろうが、CDに組み込まれた無音状態=沈黙=空白としてのノイズはやはり非実体的なものに関わらない「此処から其処へ」であったわけだ。こうしてツインとしての「此処から其処へ」が、書が秘められたことによって、各々においてはあくまでも一方向的なものとして構造化される。一の中に鳴り響く多、そして衝突と危機。其処が此処であり、此処が其処でもあるということ。遠きものが近きもののなかにある。「非越境的・・・」。
 ところで、これは明らかに入間川正美の意図である。しかし、ダニエル・シャルルが言うように、作品とはノイズ=沈黙を多く含めば含むほど作曲者の意図がそこに表現される度合が少なくなるものだ。とすれば、入間川正美が行っていることは意図によって意図を消去することに等しい。だが、演奏するとは受け入れることだ、と考えてみるならば、ここから、入間川正美がこの演奏が行われてから6ヶ月後に『歓待への準備』というタイトルでイベントを企画し、演奏を行ったことの意味も見えてくる。ヴァルター・ベンヤミンは閾とリミットを区別した上で、「閾とはゾーンであり、より正確に言えば、推移のゾーンである」と言う。推移のゾーンにおいて初めて相互に異なる人は同じ人になる。差異は相似へと身を譲り渡す。差異と差異の間隙を同一者=外国人が通り過ぎる。こうした外国人が誕生する、飛躍と断絶の非連続なゾーン。一つの言語につき添うもう一つ別の言語があり、それが「そのエクリチュールが外国人であることをトータルに引き受けているような外国人の書物」(エドモン・ジャベス)へと変える。推移のゾーン、つまり歓待のゾーン。入間川正美のノイズ=空白はこうしたゾーン=席としてあったのだろうか。それともそれは未だ歓待への準備としてあったのだろうか。それとも歓待とは常に推移の過程、準備の過程にあるものなのだろうか。「非越境的・・・歓待への準備・・」。


──入間川正美CD『セロの即興もしくは非越境的独奏』ライナーノーツ(2002年)より転載──

 
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